こんにちは。きのひです。
「努力不要論」 中野信子 著 を読みました。
2014年7月20日 初版発行
2015年2月12日 5刷発行
「努力の『努』の字というのは、奴隷の『奴』が由来という説があるそうです」
「努」という字は、あまり良い意味では使われていなかった可能性が示唆される。
他者の思考を強制され、自らの思考を放棄するということ。
「ブラック企業を連想させる言葉といってもいいでしょう」
努力するのに快感が伴うのは確かなことです。
しかし盲目的になるのは危険。
「あなたが今している努力は、本当にあなたがしたいことなのか?」
「周りに流されてやってしまっているだけなのではないか?」
「身近な誰かに洗脳されてしまっているのではないか?」
「社会そのものに洗脳されているのではないか?」
時折一歩引いて、問いなおすことが必要でしょう。
「その習慣のない人は、何十年もの時間が、他者のための無駄な努力に費やされ、自分のためにあるはずだった膨大な時間が搾取されていたのだということに、取り返しがつかなくなってから気づくのです」
400メートルハードル日本記録保持者で、3大会連続でオリンピックに出場し、現在はコメンテーターや指導者として活躍している為末大(ためすえだい)さんは、2013年の10月に、ツイッターで次のような発言をして「炎上」した。
「やればできると言うがそれは成功者の言い分であり、例えばアスリートとして成功するためにはアスリート向きの体で生まれたかどうかが99%重要なことだ」
「成功者が語る事は、結果を出した事に理由付けしているというのが半分ぐらいだと思う」
「アスリートもまずその体に生まれるかどうかが99%。そして選ばれた人たちが努力を語る」
「やればできると成功者は言うけれど、できる体に生まれる事が大前提」
よく知られているエジソンの名言に「1%のひらめきと99%の努力」という言葉がある。
「エジソンの真意としては、99%努力しても1%のひらめきがなければ無駄、ということを言いたかったのだといわれています」
江戸時代、努力は粋ではありませんでした。
「努力信仰が日本の精神にはびこるようになったのは明治時代です」
明治政府をつくったのは江戸の武士ではなく薩長(さっちょう)出身の武士たち。
「江戸っ子たち都会人にバカにされてはならない、欧米列強に追いつかなければならない、という焦燥感、その圧力によって努力信仰が生じてきたのです」
江戸時代には「遊ぶ」ということを尊んだ。
遊びというのはプラスの概念であって、教養のある人や余裕のある人にしかできない、高尚で粋なものだったわけです。
庶民の識字率も高く、浮世絵を買ったり、お芝居に行ったり、文化的にも非常に豊かな時代だった。
「一般庶民が黄表紙(きびょうし)などの書物を買って楽しむ、なんていうことができた国が、当時、ほかにどれほどあったでしょうか」
本来「遊ぶ」というのは、とても高尚なこと。
「もちろん、努力というのは生きていくために必要なものですが、必要な部分以外にもリソースを割けるということが、豊かであり、洗練されている証拠です」
能力には遺伝的な差がある。
「でも、人には誰にでも才能があります」
才能があるかないかというのは、自分が持っている適性を知って、自分の評価軸を確立できているかどうかということに尽きる。
「自分の人生における評価軸の設定は完全に任意なのですから、自分に向いている道を選んで生きていくのは、とても賢い方法です」
自分なりの評価軸を持つことが、すなわち自分の才能を見つけ出すこと。
「もしも、自分には才能がないと思ったら、自分を取り巻く環境と自分の持っている資質のどこが適合しないのか、考える機会を与えられたと思ってください」
著者が誰かの相談に乗るときに聞くことがあります。
「まず自分の嫌なところを聞かせてください。そして、どんなふうになりたいかを教えてください」
自分の嫌いなところというのは、自分でも気づいている自分の資質。
「資質ではなく、才能に置き換えてもいいかもしれません」
自分を再評価する作業をていねいに、1つずつやっていくことは大切です。
「すると、自分が持っている才能が何なのか、そして自分の持っている資質で勝負できそうなことは何なのかが少しずつ見えてくるでしょう」
そこから、どういう自分になりたいのかを考えていく。
「〇〇のようになりたいけれど、今の自分は××だから、目標にたどり着くまでに△△という戦略を立てよう」
「努力という言葉は人を縛り、無料、あるいは安価な労働力として使いたい人が用いるブラックなレトリックなのです」
「真の努力とは、本当に目的を達成したいのであれば『広義の努力』適切に目的を設定し、戦略を立て、実行することです」