こんにちは。きのひです。
「アレクサンダー・テクニーク」 小野 ひとみ 著 を読みました。
2007年8月25日 初版第1刷発行
著者は声楽家、アレクサンダー・テクニーク教師。
大阪音楽大学卒業後、欧米各国で学ぶうちにアレクサンダー・テクニークに出会いました。
副題は「やりたいことを実現できる<自分>になる10のレッスン」
「本書はアレクサンダー・テクニークの基本的な考え方や活用法をできるだけわかりやすく簡潔に説明することを試みた入門書です」
アレクサンダー・テクニークは体操法でもなく、何かの健康法でもなく、リラクゼーションや瞑想法のたぐいでもない。
「人が何かをしたいと思ったときに自分自身を最良の形で使いこなしてやりたいことを実現できる心身の基本的なコントロール法です」
レッスン生と、まず認識のウォーミング・アップをしていきます。
「肩凝(こ)りがひどかったり頭痛が時々したりでどうも身体が自分の思うように動いてくれない時があるのでなんとかしたいなと思ってきました」
それに対して著者は「肩が凝るんですね。どんな時に肩が凝っていると感じますか?」と質問する。
「そうですね・・仕事がすごく立て込んでいる時、急いでやらなければならない時に、肩が凝って苦しいと思うことがあります」
「その肩凝りというのはある時期だけ肩が凝っているの?それともずっと凝っているんだけれども気がついた時だけ凝っていると思うのかな?」
「肩が凝るというのは突然ぱっと凝るわけではないから仕事が立て込んでいない時は、肩が凝っていることはそんなに気にはならないのかな?」
それはつまり意識が他に行ってしまっているということです。
目の前にある仕事や、やっていること自体には意識があるけれど、それをやっている身体については意識が飛んでしまっている。
「身体的にどうしようもなくなって、きついと訴えられた時にだけ身体を感じるのではないですか?」
「では具体的に実験をしてみましょう」
「さて、ではそうして椅子に座ったまま・・・鏡を見てみましょうか」
(大きな鏡を前に置きます)
「鏡の中の自分の姿を見てください」
レッスン生はつい座り直しました。
「どうして座り直したの?」
「えーと・・・ちゃんと座ろうと思って・・・」
「その『ちゃんと』っていうのは何かしらね?何を基準に『ちゃんと』なの?」
「・・・姿勢を良くしようと思って・・・」
会話を続けるうちに「習慣的に『お行儀よく』と思って姿勢を直した」ことがうかびあがってきます。
「私たちは知らず知らずに自分の行動の基準を決めてしまっている」
背筋を伸ばしてきちんとしている座りかたをしようとした。
でもそれは本人にとってはあまり楽な座りかたではありませんでした。
「どんな姿勢をとるかはあなたの責任であって、誰もそんなことは強要していないのに『背中を無理矢理伸ばしているので辛い』姿勢を『正しい姿勢』としてとろうとした」
それは習慣的な基準で習慣的に反応しているということです。
「背筋を伸ばすのもいいでしょうし姿勢を正しくお行儀よくするのもいいでしょう」
「でも身体の事情を聞きながらそれをできないものでしょうか?」
身体としては決して居心地が良いわけではないのに頭の中で漠然とイメージしている「良い姿勢」に無理に合わせてしまう。
それで窮屈になっている自分に気がつかない。
「それも不思議なことです」
アレクサンダー・テクニークが究極の目的として目指しているのは「ボディとマインドの乖離(かいり)」をなくすこと。
人間が本来もっている感覚を取り戻して自分が本当に「やりたい」と思ったことに対して本来の能力を適切に発揮できることを目的にしています。
「習慣的な行動に気づいて」「身体の調整作用を知り」「頭から動く」
著者は最初「アレクサンダー・テクニークを言葉で説明するのは不可能だ」と決め込んでいた。
しかし10年あまりがたち、著者は日本人にとってわかりやすく腑(ふ)に落ちやすい語彙や表現方法を自分なりに身につけてくることができたように思いました。
そして日本ならではの問題点とともに日本人にとっての活用法も見えてきた。
そうなるとアレクサンダー・テクニークに関するこれまでのさまざまな本が欧米人の書いた欧米人のためのものであることが気になってきました。
「本書は決してアレクサンダー・テクニークの全貌をお伝えするものではありません」
「本書をひとつのきっかけとして日々の暮らしの見かた・考えかたがほんの少しでも変わり、新しい自分を発見するヒントになれば幸いです」
ちなみに「テクニーク」は「テクニック」でも「もちろんいいんです、どっちでもいいの(笑)」
たまたま最初に関連書が翻訳出版されたときに「テクニーク」と紹介されて、それから用語としては「テクニーク」が定着してしまったそうです。